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使徒聖ペトロ、聖パウロ St. Petrus  et  St. Paulus  Ap.        大祝日 6月 29日



 かつてイエズス御自ら弟子達に宣うた「総て自らへりくだる人は上げれれるべし」という御言葉はわけえもよく聖ペトロに当たっている。彼は始め一介の漁師に過ぎなかったのに、主の御口づから使徒達の首領、全聖会の支配者に任ぜられた。かくて彼は主の代理者となり、その権を相続したローマ教皇は教統連綿として、今日に至るまでその聖会統治の大業を行っている。ペトロは一生を貧しく過ごし、信仰に殉じて生命を献げた。しかしその墓の上には世界で最も壮大雄麗な聖堂が建てられ、絶えず諸国の参詣者が杖を引き、熱心に彼の取り次ぎを祈り求めているのである。

 彼の名は最初シモンといった。それが磐の義なるペトロと呼ばれるに至ったのは、主の御命名にかかるのである。彼の父は同じく貧しい漁師でヨナと称し、彼の母はヨハンナといった。ペトロは聖主より二、三歳年長で、ゲネサレト湖畔の小さな町ベッサイダに生まれ、兄弟のアンドレアと共に健やかに生い立ち、信仰の深い一般ユダヤ人のように、そこの会堂で聖書を学んだ。長ずるに及んで彼等兄弟は父の如く漁を生業とし、年頃になっては妻をめとり、貧しいながら平和な日々を送り迎えしていたのである。
 所がちょうどその頃洗者ヨハネがヨルダン川のほとりで教えをのべ始めた。ペトロは兄弟と共にいち早く彼の弟子となったが、それでも生計を立てるため漁業は依然として捨てなかったのである。しかしそれから間もなく二人はイエズスを知るに至った。何となれば洗者ヨハネがヨルダンに来たり給う聖主の姿を見て、周囲の人々に「見よ、天主の子羊を!見よ、世の罪を除き給う者を!」と教えたからである。
 アンドレアと後に主の愛弟子となったヨハネはその言葉を聞くとすぐに主の御後に従った。するとイエズスが振り向いて「何か用か?」とお尋ねになったので、「師はどこにお住まいでございますか?」と申し上げると「来てみるがよい」との殊であったから、二人は早速御言葉に甘え、その日は主の御許に泊めて頂いた。
 やがてペトロも兄弟のアンドレアに連れられてイエズスにお逢いしに来た。それというのもアンドレアが「我々は救世主様を拝んだ」と誇らしげに吹聴したからである。主は彼に逢うとその顔を熟々と眺めながら「汝はヨナの子シモンか、これからペトロ即ち岩と呼ぶことにしよう」と仰せになった。
 ペトロはしばらく主の御許に留まっていた。そしてご一緒にカナへも行けばエルサレムへも行った。が、その後再び故郷に帰ってもとの如く働いていた。ところがある朝アンドレアとゲネサレトの湖で魚をとっていると、そこへイエズスがおいでになった。その日はあいにく不漁で、前夜から沖に出て網を下ろしていても雑魚一匹取れなかった。で、その由を訴えると主がもう一度網を下ろして見よと仰せになる。二人はどうせ無駄とは思いつつも聖言の如くにして見ると、どうしたというのであろう、今度は驚くばかりの大漁で、網を上げる事すら二人の手に合わない。仕方なく近間の船にいる漁師仲間を呼んで手伝わせ、網を引き上げて見るとはつらつたる銀鱗が朝日の光に照り映えて、船二艘に一杯になるまであった。まさに大奇跡である。ペトロはかかる不思議を行い給う主は、よもや常人ではあるまいと思うと空恐ろしくなり、御前に平伏しざま「主よ、私は罪人でございます、どうぞ御慈悲を以て私からお立ち去り下さい」と申し上げたが、イエズスは優しく「そう恐れずともよい。今日からあなたを人を漁る者と為そう」と仰せになった。彼が主の御傍を離れず仕えるようになったのはこの時からである。
 その後イエズスは一夜を祈り明かして、数ある御弟子達の中から12人を使徒と選び、わけてもペトロをその首領と心に思い定められた。(ただしその権力を公に委ねられたのは、なお後の事であったが)されば彼は何時如何なる所でも主の傍らにいない事はなかった。例えばヤイロの娘のよみがえり、タボル山での御変容、ゲッセマネにおける御心痛の際の如き、他の使徒達の立ち会いを許されなかった場合にも、彼だけは御同行の光栄を得たのである。
 そして又ペトロの方にもその栄誉をになうだけのすぐれた点が十分にあった。主が聖教を説き給う時、誰が彼に優って熱心に耳を傾けたろう。誰が彼に優って主の御身の上を案じ参らせたろう。その証拠に、イエズスがゲッセマネの園で敵に捕らわれようとされた時、師を思う熱情から相手に躍りかかったのは誰であったか、主が裁判所に引かれ給うた時、心配のあまり真っ先に御後を慕って行き、終夜そこを立ち去らなかったのは誰であったか?かように考えるならば、彼のイエズスに対する愛が他の使徒達御弟子達を遙かに凌駕していることを認めぬ訳には行くまい。
 もっともそうした彼にも悲しむべき失敗はあった。それは最後の晩餐の席上「たとえ皆が主をお棄てしても、私だけはあくまで主のお伴を致します、よしや生命を失う場合でも!」と立派な口を利きながら、裁判所の庭で他人に「お前もイエズスの仲間ではなかったか!」と三度まで訊かれ、その都度慌てて「いや私はあんな人を知りません」と否んだ事である。しかしこれは己の力を恃みすぎた人間の弱さの暴露に過ぎなかった。間もなくイエズスがさも悲しげに顧み給うと、彼は大恩ある主を否み奉った罪の恐ろしさを自覚し、外に出てはてしない痛悔の涙にくれた。そして主も彼の悔悛の真心をみそなわして、その大罪を赦し給うたのである。
 いよいよイエズスが蘇り給うて、マグダレナがその吉報をもたらすと、ペトロは誰よりも先に宙を飛んで御墓に駆けつけた、後イエズスはゲネサレト湖畔で使徒達に現れ給うた時、彼に向かって「汝は吾を愛するか?」と三度までお問いになり、彼が「はい、私が主を愛し参らせております事は、主のご存じの通りでございます」と答えると、「わが羊を牧せよ、わが羊を牧せよ」と宣うて全聖会統治の大権を彼に委ねられた。
 聖主御昇天より十日目、ペトロは聖母マリアや他の使徒達と共に聖霊を受け、起って一場の説教を試み、即日三千人の受洗者を出した。それから幾許もなく神殿において生来の足の不自由な者をたちまちに癒す奇跡を行い、又衆議所に引かれ、説教を禁じられたのに「我等は人に従うよりは神に従わねばなりません」と断固たる態度を示した。後信仰の為に投獄されるや天使の力によって救い出されたこともあった。
 エルサレムに迫害が起こると、ペトロはヨハネと共にサマリアに赴き、そこの信者達に堅信の秘蹟を授け、次いでアンティオキアを訪い、同地に教会を創設した。なお使徒行録によれば彼はヨッペで奇跡を行い、エルサレムで使徒達の宗教会議を司会裁断して重大な決議を宣言したとある。それから彼はローマに移ったが、同市における彼の活動振りは遺憾ながら詳しく知られていない。唯その頃アジアの二、三の教会に宛ててしたためた書簡が、聖書中に採録されて今も残っているばかりである。

 紀元67年、ペトロはネロの迫害中に捕らわれ、逆磔刑になって壮烈な殉教の死を遂げた。その遺骸は信者の手でねんごろに葬られ、今もその名を戴く世界最大の聖堂内に安置保存されている。そして彼に対する崇敬は至る所で盛んに行われているのである。

教訓

 我等も罪を犯した時には、聖ペトロに倣い、自暴自棄することなく真心から痛悔しよう。そうすれば天主も快くおゆるし下さるに相違ない。



 聖パウロは小アジア、シチリアのタルソに生まれ、始めサウロと名付けられた。両親はユダヤ人で熱心にその宗教の律法を守っていたが、ファリサイ人なる父は我が子のサウロにもその精神を鼓吹して已まなかった。けれどもサウロは当時タルソに盛んであったギリシャ主義の教育も受け、従って彼はギリシャの哲学、歴史、文学、言語等に通暁した。これらの知識はその頃の文化人に欠くべからざる資格であった。そして彼のその豊かな素養は、後にキリスト教の弘布に少なからず役立ったのである。パウロは当時の習慣に従い一つの手職を習い覚えた、それは天幕を作ったり毛繊を織ったりする事であった。彼はその技術に甚だ熟達し、立派にそれで独立の生計を立て得るまでになった。が、父はそれから彼をエルサレムに送り、名高い碩学ガマリエルに師事させて、ユダヤ教の神学並びにヘブライ語を研究させた。
 エルサレムには彼の姉が嫁いでいたが、その息子は後年非常に彼の助けとなった人であった。パウロは、学びの道に長足の進歩を示し、また規律正しい厳格な生活に身を慣らした。その間彼はイエズスや洗者ヨハネに就いては何事も聞かなかった。というのは、まだ主が公生活に入り給わず、ヨハネも悔悛の説教を始めぬ内で、間もなく彼はエルサレムを去ってタルソに帰ったからである。
 しかし使徒達が福音をのべ伝え、その信者の数が日に日に増加しつつある頃、パウロは再びエルサレムに上った。そして持って生まれた火のような激情と、ユダヤの律法に対する尊重の念から、猛烈にキリスト教徒の弾圧を始めた。彼は聖ステファノの石打の刑にして殺害した時にも、エルサレム及びその付近の他の聖教信者の迫害にもかかさず加わっていた。
 やがて彼はダマスコにキリスト教徒がいるという事を聞き、早速彼等を捕縛すべく兵士を引き連れて馳せ向かった。所が同市の近くになって、急に天からさっと一條の光が閃きかかったと見ると、彼の体はひとたまりもなく地上に打ち倒され、同時に彼は「サウロよ、サウロよ、どうして吾を迫害するのか」という声を聞いた。で、「そういうその方は何者だ」と詰問すると「吾は汝の迫害するイエズスである。棘のある鞭に逆らう事は汝にとって至難であろう」との答えである。ここにおいてパウロは恐怖と驚愕とに身を戦わせつつ「主よ、私はこれからいかが致したらよいのでございましょう?」とお尋ねした所、「起って市中に入れ、汝の為すべき事はそこで告げられるであろう」との御言葉であったから、彼は立ち上がったが、天の罰か俄か盲目になって何一つ見えなかった。それで従者に手を引かれ、ダマスコの町に入り、三日の間少しも飲食せず、ひたすら痛悔の祈りを献げていた。
 しかるにかねて同市にアナニアという主の弟子がいたが、幻影の中に主が現れ給い、「これからすぐにユダの家にいるサウロというタルソ人を見舞え、彼は吾が異邦人、国王、及びイスラエル人に布教の為選んだ者である」と仰せになった。サウロといえば有名な迫害者であるから、アナニアはいぶかしく思ったが、兎に角御命令のままに彼を訪ね、按手するとその目から鱗のような物が落ち、同時にパウロは視力を快復し、起ってアナニアの手から洗礼を受けたのであった。
 かくて信者の一人となったパウロは、もとキリスト教の迫害に示した熱心を、そのまま布教に振り向け、その該博な学識を武器として華々しい活躍を始めた。彼が福音宣教の第一声を挙げたのはダマスコ市においてであったが、間もなくユダヤ教徒が憎悪に燃えて彼を殺そうとしたので、彼ははしって荒れ野に逃れ、そこで使徒職に就く準備に、祈り、聖書を読み、黙想しつつ3年を送ったそしてその間の衣食の料は自ら天幕用の布を織ってもうけたのである。
 いよいよ彼は一国に止まらず数国にまでも救霊の道を説く使徒として起ち上がった。まず彼は又もダマスコに行き、次いでエルサレムを訪うて聖ペトロに逢い、更に生まれ故郷のタルソに帰って久しくその地に滞在し、それからアンティオキアに旅した。彼はいつも行く先々に信者の団体を造る。それだけにまた至る所教敵の迫害も受ける。しかし剛毅な彼は身に降りかかる苦難の数々を天主の為喜んで忍んだのであった。
 彼の名高い三回の伝道旅行は、彼がエルサレムからアンティオキアに戻った後に端を発する。最初の旅行は3年にわたり、彼は、小アジアを通ってアンティオキア、イコニウム、リストラ、デルベ等に教会を設けた。これは何もこの旅行ばかりに限らぬが、彼はいつも始め主要な都市のみを訪問し、それを足場としてその付近にも次第に信者を作るという布教法を採用したのである。
 第二回の伝道旅行もやはり約三年の歳月を要した。この度は前に教会を設けた都市を見舞い、なおその他の小アジアの町々をも訪れた。その上彼はヨーロッパのフィリピ、テサロニケ、ボレア、アテネ、コリント地方にも足跡を印しエフェゾを通ってエルサレムに帰った。
 第三回の伝道旅行は5年かかった。が、その中3年間はエフェゾに滞在していたのであった。
 パウロはかねてローマを訪うて同市に布教し、更に遠くスペインにまでも足を伸ばそうとの志を抱いていたが、その実現に先立ち又もエルサレムに上った所、ユダヤ教徒に捕らわれて二年間というものをカイザリアの獄中に過ごさねばならなかった。しかしパウロはローマの市民権を持っていたので、皇帝に上告し、為にローマに護送されたが、同地における拘禁は甚だ寛大で布教する事さえ許されたほどであった。かくて過ごすこと又も二年、ようやく無罪の宣告を受けて自由の身となったのである。
 伝説によれば、パウロはしばらくの後スペインに行ったとの事で、次いで再び東国に赴いたが、エルサレムの方には行かず、またまたローマに上った。そしてネロ皇帝の迫害中に捕らわれて死刑を宣告され、同市郊外において紀元67年、一陣の太刀風と共に、潔い殉教の花と散ったのである。その斬首の場所には今日ひとつの聖堂が建立され、そこから程遠からぬ彼の墓の上にも美を極めた大聖堂が毅然としてそびえている。これこそ有名な聖パウロ大聖堂に他ならない。
 聖パウロは生前自分の創始した教会や弟子などに宛てて十四の書簡をしたためた。これらは皆新約聖書中に加えられ、今もイエズスの教えを証明する貴重な文献となっている。

 パウロの働きは実に他の使徒達を凌ぐほどに大きい。彼は数多の国々に宣教し、様々の苦難をなめた。彼は自らも言っている如くしばしば獄に投ぜられ、死の危険に瀕し、冷遇虐待を受けた。打擲された事五度、笞刑を受けた事三度、石を擲たれた事一度、難船の禍も前後三度に及び、一日一晩海上を漂流したこともあった。その上彼にしばしば襲いかかって来た死の危険、病、飢え渇き、断食、寒さ、心労、霊の悩み・・・。しかし彼は一切をキリストの為に耐え忍んだ。イエズスこそは彼の総てであった。「我は活くといえども最早我に非ず、キリストこそ我において活き給うなれ!」彼は愛するイエズスの為に一命を献げる事を何よりも熱くこいねがった。そしてその望みはかなえられ、彼は今聖なる使徒、栄えある殉教者として天国の永福をうけ楽しんでいるのである。

教訓

 我等も聖パウロに倣い、天主の御光栄、他人の救霊の為もっと熱心に働くよう努めよう。しかしその前にまず鋭意自分の救霊を計らねばならぬことは言うまでもあるまい。